六覺千手はだんじりの絵や様々なちらしのデザインにより問題提起をしてゆく。
英語が氾濫したデザイン業界、イベント化しつつある日本の祭
子供に合わせたマスコットキャラクターが市町村や祭の象徴に描かれる世の中を排除するべく描き続ける


「だんじりの絵」や「神楽の絵」、「篠笛や和太鼓の演奏会ちらし」「祭礼ポスター」等をはじめ
書籍、広告ポスターなどの制作、発表、受注。関連商品の販売。(CD・絵・ちらし・ポスター・団扇など)
日本人の心、その土地ヾの人の心を心地よく刺激できる作品を発表していきます。



六覺千手三歳
左で切れてるのは兄

生まれる
昭和五十二年(1977)生まれ
今思えばいつでも絵を描いていた。
幼少のころの記憶なんて細かく覚えてないのだが絵にまつわる記憶だけが残っている。
保育所のころに描いた漫画は現存する。広告の裏に描かれた漫画の内容は

@戦車が出てきて大砲を撃ちまくり戦車が大破する戦争物。
Aライオンや像と槍で戦う大捕り物活劇(ライオンが描けなかった私は母に描いてもらった記憶がある)なぜか後半に恐竜が暴れまわる。それも槍で退治!
B夏の蒸し暑い晩に肝試しに向かった若者が次々と謎の死を遂げる・・・。登場人物が全員死亡するといった妖怪忌憚!

どれもこれも少し血なまぐさい作品である。誰もが持っている幼児期の残虐性が如実に現れ、
漫画に表すという手段が可能だったため今読むとろくな大人になりそうもない感がする。
しかし幻の口承でしか伝わっていない作品がある。
母いわく、その物語は「おじいさん助けてくれてありがとう」という言葉で締めくくられる、感動作であるとのこと。現在調査中である。
保育所
保育所に入りそこでも絵の記憶しかない。
動物園にスケッチに行きみんなの絵が教室に並べて張られた。
明らかに自分よりへたくそな絵、子供がよく描きそうな目が異様に大きかったり、比率があまりにもおかし過ぎる様な絵。
それが褒められてるのを見て悔しがった記憶がある。

ピンクの花の絵を描いた記憶もある。一人残って静まり返った広間で夕方に描いていた。

この頃描き続けていた絵がある。それは「火山の絵」。茶色のマジックで画用紙に山の形を描き、それをマジックで大まかに塗りまくる。
その後塗りきれずに残った部分を細かく赤いマジックで塗ってゆく・・・。そんな絵をなぜか毎日描いていたことを覚えている。

あらためてこうして過去を思い返してみると自分でもちょっとおかしな子に見えてきた・・・。
凧揚げの凧を作る授業があった。好きな絵を描いてもよかった。みんな漫画を描いていた中、
私はだんじりを描いた。しかも彫り物の一部。茶色一色で仕上げた彫り物の絵が描かれた凧を製作したのである。
小学校
小学校に入り漫画を描き続けた。
絵といえば漫画と思っていた時代である。図画工作の授業以外は漫画を描いていた。
似顔絵を描く授業があった。肌の色は決して一色ではなく沢山の色が組み合わさっているということを見切った小学生の私は
絵の具から沢山の色を出し、テンテンテン・・・と押えるように沢山の色で肌を表現していた。
我ながらすばらしいと思いながら描いていると、先生が「君の肌はそんなにテンテンか?」と言ってきた。
先生にも理解できないことなのか?と思いかたくなにその手法を押しすすめた記憶がある。

小学五年生で漫画「AKIRA」大友克洋と「雷火」藤原カムイに出会い衝撃を受ける。
この頃周りにこんな漫画を読んでる友達はいなかった。引っ越してきたK山君だけが奇跡的に読んでいた。
中学校
中学にあがる頃には「絵が上手」それが取り柄のヒトになっていた。
スポーツも好きでサッカーなど小学一年生の頃からずっとしているが、そんなに上手じゃない。
「図画工作」の授業が「美術」と変わり何だか崇高なものに感じた。今まで以上にレベルの高いことを要求され誰よりもよい作品を作ろうと思った。
一点透視法、二点透視法、模写、彫刻、デザイン今まで描いたことも作ったこともないそんな授業が楽しかった。
家に持ち帰り授業の続きを永遠やっていた。

最近母校の中学校に立ち寄ったとき担任だった先生に、「あんたは授業聞かんと、ずっと絵を描いてたな」と言われた。よく覚えてるもんだ。
教科書からノートはたまたテストの答案用紙にまでびっしりと落書きが残されている。あまりにも多いので以前切り抜いて保存しておいた。
ノート、教科書も現存している。
高校
高校受験だが美術の授業がある学校。それだけで決めた。
高校一年生の時、絵の好きなクラスの女の子が「美術の先生が受験のためのデッサン教えてくれるって」と私を誘ってくれた。
受験?デッサン?
今思えば私は何と愚かなやつなんだ。それまで「芸術大学」や「美術大学」という存在を知らずに生きて来ていたのである。
おぉ!何と絵を描いて大学受験が出来るのかぁぁ!!
マジでびっくりした。
そしてこの時出会ったのが、現在泉南高校で美術を教えている大島先生。
まさかこの時一緒に学校で美術を教えるなんて思ってもいなかった。
それはさておきデッサンが始まった。絵には自身のあった私だが、これがちっともダメ。
直線を引けない、思った線がかけない、質感が出せない、楕円がかけない・・・・。
自尊心に深い傷をつけながら必死に描いた。ずっと描いた。暇があたら線を引く練習をした。電車の中でも風呂でも絵を描いた。
描ける様になって来るとデッサンは楽しくなってくる。絵を描くのが受験勉強なんて夢にも思っていなかった私は描き続けた。

この頃映画などで使われる特殊メイクに興味を持ち始め、立体造形をはじめる。
何となしに芸大に行こうと考えていたのが、大学で立体を勉強しようと考え始める。
そこで大阪芸術大学の彫刻科を目指し、見事合格。
受験はデッサンと塑像だったのだが、デッサンのテストがものすごく調子が良く一時間くらい時間が余って逆にあせった。

受験が早速終わってしまい、友達は受験中。誰も遊んでくれないし映画をとることにした。
この時製作したのがコマ撮りアニメーション「GA I KOTU」である。3ヶ月かけて5分という私からしたら超大作。
絵コンテまで描いてかなり本気。大阪9学区の高校生の展覧会で出品。異例の作品だった。
大学
絵はうまくて当たり前。何を描くかがである
芸大に入ると「絵がうまいなぁ」なんて今までのような褒められ方はまずされない。
だってみんな上手いからである。
絵は上手くて当たり前。自分の表現力を豊かにして、何をどのような方法で表現するか、何を描くかである。
立体を勉強しだした私は、あらゆる角度から、モノを見るということを学んだ。
木彫は嫌いだった。粘土が好きだった。石膏やFRP(樹脂)を好んで使っていた。

大学に行っていると今までにいなかった種類の友達に出会う。
時には怒鳴りあって自分たちの表現を語り合った。
2回生になった頃、大学を卒業したらどうしようなどと考えていた。
卒業すれば、アトリエもなくなれば創作する自由な時間も限られてくる。
卒業する前に大学以外で活動しておかなければ、と思い大学外で作品発表をはじめる。
この時期に「ライブ彫刻」を行い新たな表現手段を試すことにより視野を広げる感覚を感じ取る。
そんなこんなをしているうちに、大学を出て東京で絵を描こうと思い始める。
グループ展を原宿でした時に知り合った人もいくらかいたし、大学内よりも活気があふれた、創作意欲が掻き立てられる環境だと思ったからだ。
二回生で大学を中退、一年間アルバイトでお金をため、上京。
この時だんじり祭りと手を切ることになる。
【だんじりか絵か】という究極の選択であった。
東京一年目
祭りを離れて
生まれてからずっとだんじりを曳いていた。
生まれてからずっと絵を描いていた。
中途半端に絵を描きたくなかった。
それしか出来ることが無かったし、絵を描く以外の生き方が分からなかった。
東京は小金井市というところで暮らしだす。

東京に出て一年目「てっぽう」という演劇をした。
自分の考えを表現する手段を「絵」だけでなく「立体」「文章」「詩」「演劇」「パフォーマンス」と広めてゆく。
東京二年目
六覺千手誕生
現 妻と出会う
二年目バイト先で現在の妻と出会うが、ふた月くらい同じ職場にいることに気づかなかった。
その年北海道で個展をすることになった。
高い金をギャラリーに払い、友達誘って自分たちで盛り上がる。
それが私の周りの人たちの個展だった。
それが嫌だったので、知り合いには誰にも告知せず、絶対にこれない北海道ですることにしたのである。
なけなしの金で、帰りの交通費も持たず、北海道で絵を売ってその金で帰るという滅茶苦茶な個展であったが、
大盛況のうちに個展を終了した。
この個展にあたり名刺を作ろうと思った。名刺にはやっぱり肩書き。
しかし、自分の肩書きが見つからない。いくら考えても見つからない。
う〜ん・・・・・・・・自分でつくろう!
っということで「六覺千手」の出来上がり。
現在は六覺千手が名前になっているが一応肩書きであった。
人より一つ多い感覚を持ち、あらゆる表現手段、あらゆる視点で表現する、そんな意味である。

と、そんなことをしている時にバイト先で現在の妻となる女性と出会う。
たまたま同じ日に某所でバイトを始めたらしいがそのことを私は知らなかった。
しかも2ヶ月くらい妻の存在すら知らなかった・・・。
よく家には遊びに来ていたが、絵を描くのに邪魔だなぁと思ってたのに・・・・、
まさか結婚するとは夢にも思っていなかった。
泉州弁丸出しの私は普通にしゃべってるだけで、怒ってるって泣かれた悲惨な経験をし、少し言葉に気をつけることにする。
京都へ
民の謡と手を組む
北海道で個展をしたことがきっかけで、「東京」という場所の意味が自分にとってあまりなくなった。
一番描きやすい、かつ面白い場所・・・・それは「民の謡」がこの時拠点にしていた京都だった。
この時「民の謡」発足ほやほやである。
北海道の個展のときにお世話になった、馬頭琴奏者 嵯峨治彦(のどうたの会)  語り 田中孝子による
「野花南」京都公演を民の謡主催で行う。
初めてのちらしデザインを手がけた。
パソコンって何?という段階である。イラストレーターってオモロイなぁ・・・。ってな調子である。
おぉぉ!文字が透けて重なった!と民の謡と感動した時代である。
DTPなんて言葉はこの後、数年経って初めて知った。
しかし完成度にはこの時からこだわっていた。印刷屋に刷り直しを要求すること幾度。
わたくしの知識のなさが原因のミスもあったが、こちらから言わしたら 先に教えろよ!といった無鉄砲さでちらしをデザインしていった。
この時の印刷屋さんとのやり取りで、吸収した知識は随分あるだろう。
現場で覚えるのが一番手っ取り早かった。
大阪へ
地元での活動
平成13年(2001年)
京都で一緒に活動していた民の謡と共に、平成12年(2001) 二人の生まれ育った地でもある大阪は泉州へ帰る。
ついに地元での活動に入るのである。
この時まだ、だんじり祭と六覺千手の活動との接点はなかった。
演奏会のちらしをメインに少しずつデザインメインの活動内容へと移行するのである。
そしてこの年から、特別非常勤講師として泉南高校で美術の授業を行う。
わたくしの恩師 大島救喜先生(現 泉南高校美術科 教師)の推薦でもあり、新しい世界への挑戦でもあった。
しかしまさかわたくしが先生に・・・・。誰もが予想もしていなかった緊急事態発生である。
この時、私22歳。高校三年生を教えたので年の差が4歳。
固定観念も何もなく好きなように授業内容を組ませてもらえたので楽しく授業を行えた。

この年8月から2ケ月かけて、立体超大作「泉南高校体育祭入退場門」
を制作
久しぶりの立体でもあり、初めての大作。好きなように進行させてくれた泉南高校には感謝である。
ちらしデザイン中心に
地元での活動
酔っ払いと喧嘩 あわや返り討ち
平成14年(2002年)
この頃からちらしデザインが主流となる。
デザインという枠の中で作品を発表した経験は浅かったが、
巷に氾濫する英語だらけのデザインには嫌悪感を感じ、
今まで自然に身についた美意識と感覚を信じて作品を発表していった。
今見るとテクニックは劣るが、根底に流れる美意識は研ぎ澄まされている。

と、そんな時分の事だった。とある飲み屋でお店の奥さんに絵を見せていた時に酔っ払いのおっさんに絡まれた。
自称芸術家のおっさん。ベロベロで横目で俺の絵を見たらしく、何かといちゃもんをつけてくる。
「芸術を舐めてる」とまで言ってきた。「おっさん酔っ払って俺の絵を見るな」と言ってやった頃からにわかに機嫌が悪い。
俺も酔っ払って絵にけちを付けられたのでかなりムカついていた。
ここはおっさん一発なぐってさようならか?と思ってたらみんなに止められた。
しかし後で聞いた話ではそのおっさん空手の達人だったらしい。もう少しで返り討ちだった。
喧嘩は強くないし嫌いだが絵にケチを付けられたら、いやでも殴ってしまうこともある。
意味不明な御託を並べてたがおっさんよ、お前の言うものが芸術ならば、俺は芸術を目指していないから安心しろ。
地車と六覺千手
だんじりの絵を描く
平成15年(2003年)
2006.12.25更新
平成15年1月に岸和田は浪切りホールにおいて「だんじりアート展」なるものを開催すると聞き出品。
この時にCD「箕土路の鳴物」用に描き下ろした絵とともに5,6点出品。
ついに六覺千手と岸和田祭とが直結した瞬間である。

フォトショップとペンタブレット(ペン型のマウス)を手に入れたわたくしは使い方も余り分からないまま黙々と描きつづけた。
この時に編み出した描き方は今現在となんら替わらない。

更にこの年ついに結婚。平成15年時点での六覺千手との結婚を快諾した嫁はスゴイ!
「これから俺と一緒に苦労してくれ」と言って大雨の中婚姻届を役場に持って行ったのである。
地車ポスターをついに手がける
だんじりの絵を描く
平成16年〜17年(2004〜2005年)
2006.12.25更新
久米田寺多宝塔落慶法要のポスター・だんじり団扇・CD箕土路の鳴物を手がけついに八木祭礼年番ポスターと年番冊子を手がける。
デザインをしだんじりの絵を描き出した時からのひとつの夢でもあった年番ポスター。
しかもわたくしが育った八木地区のポスターと年番冊子を任されたのである。
各町のだんじりを切り抜いて貼り付けたポスターが当たり前のように生産されていた中 問題作を発表したのである。
引き続き 17年も年番冊子を作成。

1977.8 大阪生まれ
1996.2 【映画 GAIKOTU】
脚本・撮影・照明・音楽・人形制作・監督 
1996 大阪芸術大学(彫刻専攻)入学
1997.7 【ライブ彫刻】
作・演出/森田賢
(大阪・ライブハウス・ロケッツ)
1997.12 【宇宙97ファイル展】出展
(東京・原宿ギャラリ-)
1998 大阪芸術大学中退
1998.4 【ゾンビ特殊メイク】
ゲームソフトHOUSE OF THE DEAD 攻略本用(AXEL)
1998.6 【パフォーマンス 幻覚世界精神世界の実験的視覚化】
作・演出/森田賢 出演/森田賢 宮内靖彦
(大阪・ライブハウス・奇異奇)
1999.12 【演劇 てっぽう】
作・演出/森田賢 出演/宮内靖彦 和田克巳
(東京・ウェストエンドスタジオ)
2000.8 【六覺千手】に改名
2000.9 【個展】
絵/森田賢
企画/六覺千手 協力/民の謡
(札幌・月庵)
2001.1 【朗読文「欠落と肥大の物語」提供・チラシ, パンフレットデザイン,詩(チラシ用)】
「のんのん野花南」

出演/野花南〔田中孝子[語り] 嵯峨治彦[喉歌・馬頭琴]〕 森田玲[篠笛]
企画・制作/民の謡・のどうたの会 協力/六覺千手
(京都・茂庵)
2001.1 【巻頭歌(パンフレット用)「冬咲ら-ふゆさくら-」
出演/HARD TO FIND[ケルティック風味アンサンブル]
嵯峨治彦[喉歌・馬頭琴]
企画・制作/民の謡
(京都・くろちく百千足館能舞台
)
2001.4 【チラシ・DMデザイン(茂庵用)】「さくらに寄す」   
出演/鯉沼廣行[篠笛・能管] 金子由美子[篠笛]
2001年4月13日〜15日
企画・制作/民の謡・茂庵 協力/六覺千手
2001.6 【チラシデザイン】 「アコースティック・パフォーマンス・トリオ コンサート」
出演/吉崎ひろし[バンジョ-] スネイク水谷[フィドル]桜井じゅん[ギター] 
6月2日ゲスト/久保比呂誌[津軽三味線]
2001年5月31日(木)大阪・梅田・ミノヤホール
6月2日(土)大阪・岸和田・自泉会館
企画・制作/民の謡
2001.7 【演劇・狭間】
作・演出/森田賢 出演/森田賢 宮内靖彦
(北海道・追分)
2001.10 【チラシ・パンフレットデザイン】 
出演/金子竜太郎[和太鼓] EPO[ヴォイス] 嵯峨治彦[馬頭琴・喉歌]
2001年10月12日(金)
京都市・上京区・ALTI(アルティー)
企画・制作/民の謡
2001.10 【泉南高校体育祭入退場門】
デザイン・制作総指揮
2001.10 【DMデザイン】
酒膳宴ふぃおーれ
2001.12 【ちらし・パンフレットデザイン】
出演/森田玲[篠笛] 土居扶実[和太鼓]
2001年12月8日(土)
企画・製作/ふぃおーれ
(岸和田市・ふぃおーれ)
2002.1 【ちらしデザイン】
CANZONE
企画・製作/ふぃおーれ
2002.2 【岸和田市立 中央小学校 百周年記念式典 式次第 デザイン】
2002.2 【岸和田文化事業協会 会員募集 ちらしデザイン】
2002.2 【ちらしデザイン】
JAZZ 企画・製作/ふぃおーれ
2002.2 【ちらしデザイン】「月に桜」
出演/森田玲[篠笛] 土居扶実[和太鼓]
2002年4月20日(土)
企画・製作 /民の謡
協力 /岸城神社 岸和田文化事業協会 ヤングレコード 大阪屋
後援/ 岸和田市教育委員会 忠岡町教育委員会 岸和田市観光振興協会

(岸和田市・岸城神社)
2002.3 【ちらしデザイン】
JAZZ 五十嵐はるみ ほか

(岸和田市・ふぃおーれ)
2002.4 【挿絵】「練習用篠笛譜」
著 森田 玲(民の謡)

2002.4 泉南高校美術部募集用ちらしデザイン】
2002.4 練習用篠笛譜発売用ちらしデザイン】
2002.5 祭禮練習用篠笛譜発売用ちらしデザイン】
2002.5 【ちらしデザイン】アフリカン・パーカッション・ユニット「N’DANA」
出演/山北紀彦・MASATO・三田健司
企画・製作/花もえ倶楽部 ふぃおーれ
協力/民の謡
2002.8 【ちらしデザイン】
岸城神社六五〇年大祭記念事業
民の謡篠笛講習会
(岸和田市・岸城神社)
2002.11 【ちらしデザイン】「秋の音」
出演/森田玲[篠笛] 土居扶実[和太鼓]
2002年11月2日(土)
企画・製作 /民の謡
協力 /岸城神社 ヤングレコード 大阪屋 木下書店 堺泉州出版会
後援/ 岸和田市教育委員会 だんじり会館(岸和田市観光振興協会)

(岸和田市・岸城神社)
2002.11 【ちらしデザイン】
出演/近藤智子[ピアノ] 稲屋浩[サックス]
(岸和田市・ふぃおーれ)
2002.12 【ちらしデザイン】「羽衣学園 新春コンサート」
出演/森田玲[篠笛] 原啓司[和太鼓]
2002.12 【ちらしデザイン】「クリスマスコンサート」
(岸和田市・ふぃおーれ)
2002.12 【年賀状デザイン】
2003.1 【だんじりアート展】出品
2003.1 【ちらしデザイン】「月に桜」
出演/森田玲[篠笛] 土居扶実[和太鼓](急病の為不参加)坂口佐智[篠笛] 原啓司[和太鼓]
2003年4月19日(土)
企画・製作 /民の謡
後援/岸和田市 岸和田市教育委員会

(岸和田市・岸城神社)
2003.1 【ちらしデザイン】「のんのん野花南」
出演/田中孝子[語り] 嵯峨治彦[馬頭琴・喉歌] 森田玲[篠笛]
2003年3月15日(土)
企画・製作/のどうたの会
協力/民の謡
後援/岸和田市 岸和田市教育委員会
(岸和田市・自泉会館)
2003.5 【CDジャケットデザイン】「箕土路の鳴物」
企画・製作/民の謡
企画総指揮・冊子編著民の謡 森田玲[民の謡代表・篠笛奏者]
録音 中田宏・能美亮士
音声編集・整音・マスタリング 中田宏 
題字 
紅楓 
2003.5 【だんじりの絵】「泉大津 田中町」
2003.5 【パッケージデザイン】「大阪泉州特産 水茄子ぬか漬」
2003.5 【Tシャツデザイン】「だんじりTシャツ」
企画/大阪屋
2003.6 【ちらしデザイン】「伊勢大神楽 総まわし」
神楽/山本勘太夫組
企画・製作/民の謡
後援/岸和田市 岸和田市教育委員会 岸和田市観光振興協会
題字 紅楓
2003.8 入籍
2003.8 【ポスターデザイン】「久米田寺 多宝塔 落慶法要」
2003.10 【パンフレットデザイン】「泉南高校学校案内」
2004.3 【ちらしデザイン】「第四回 民の謡 定期演奏会」「第二回 民の謡 篠笛教室発表会」
2004.3 【だんじり団扇デザイン】
2004.4 だんじり「五門」の絵 「箕土路町記念式典」の絵 発表
2004.4 【ちらしデザイン】「伊勢大神楽 総まわし」
岸城神社六五〇年大祭協賛事業 泉州音百景
国指定無形民俗文化財
伊勢大神楽講社 山本勘太夫組

企画・制作 民の謡 協力 岸城神社 後援 岸和田市
 題字 山名正志
2004.9 【ポスター・冊子デザイン】平成十六年度 八木祭礼年番ポスター・冊子
2004.9 【ジャケット・冊子・レーベル・帯デザイン】CD「岸和田 八木だんじり祭 鳴物十三ヶ町」
2004.9 【箕土路町地車新調記念誌】レイアウト・デザイン・写真(信長絵巻)
2004.10 【ラベル・ちらしデザイン】清酒「天の美禄」浪花酒造
2004.03 【大阪府立泉南高等学校美術科特別非常勤講師】2003.03まで
平成十六年(2004年)10月現在

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